第十話:磯部綾子 〈後編〉。

 

 

 

 異界内。

 

黒い世界。ただただ黒く、粘つく湿気を帯びた闇。何処までも何処までも広がり続ける暗闇の中で、巳堂霊児は溜息を吐いた。

怖いだの理解不能だのの、〈言い訳〉ではなく、ただ単純にこの〈闇〉があまりにも憂鬱を誘うからだ。漆黒という訳ではなく、ただ単純に様々な色を混ぜの色に。

人から見れば哀愁、恐怖・・・・・・・・・つまり、自分を騙して覆い隠す〈色〉に見えて仕方が無い。

まるで〈五年前〉の己を見ているようで、とても人事とは思えない。それほどこの〈異界〉の世界は、悲しかった。

悲しすぎて自嘲を通り越し、逆に冷静な眼で闇を観察する余裕が霊児にはある。

 

「〈上〉も〈下〉も曖昧だな・・・・・・・・・・・・」

 

 自分の声であたりは反響する。何時の間にかマジョ子や私兵隊長達と逸れてしまった霊児は、マジョ子の作戦通りに中心部を目指すために移動を開始してはいる。しかし、方向感覚がまったく役に立たない。

その上、時折息を殺してこちらを観察する視線には、溜息が連発する。陰鬱な気持ちを広げるに充分だった。

そのまま黙殺するのが一番いい。だが、霊児のキャラではない。頭を掻きながら〈前進〉し続けてコンタクトを試みる。

 

「顔を合わせて話そうぜ?」

 

 暗闇は耳鳴りがするほど静か。しかし、空気だけは誤魔化せない。

 緊迫する気配を感じて、霊児はもう一度声を掛ける。

 

「オレは〈見ての通り〉に丸腰だし、戦う気はないよ? なぁ? 姿を出してくれよ? 磯部綾子ちゃん?」

 

【――――――――――――――――あなた? 何者なの?】

 

 何も無い闇の中――――否、闇そのものが問い掛けてきた。

 

「えっ? あぁ〜オレは巳堂――――」

 

【自己紹介じゃ無いわ】

 

 名乗ろうとした矢先に遮られ、霊児は肩を竦める。

 

【あなたは・・・・・・・・・何者なの?】

 

 もう一度淡々と繰り返す。しかし、どうしようもないほどその声には震えがあった。未知なる恐怖に脅えた幼子の声音だった。

 

【あなたの〈記憶〉、あなたの〈心〉が読めない(・・・・・)。あなたが今、何を〈恐れている〉のかが解らない。あなたの〈悪夢〉が汲み取れない・・・・・・・・・〈私〉の〈領域〉で、〈世界の中〉で、そんな〈人〉は〈絶対〉に居てはいけないのに・・・・・・・・・】

 

 霊児の身体を三六〇度隈なく視線を向ける闇。

 

【あなた・・・・・・・・・・・・〈人間〉なの?】

 

「どっから見ても人間でしょうが?」

 

【嘘】

 

 質問を即答したが、刹那で否定されて肩を落とす霊児。オレって人間に見えないのか・・・・・・・・・と、本気で落ち込んでいた。

 

【人間なら何故〈恐怖〉が一欠けらもないの? 何故〈心的外傷(トラウマ)〉も無いの? 何故? どうして? 〈私〉はあなたが解らない。あなたが今、何を考えているのかが〈解らない〉・・・・・・・・・】

 

 はぁ〜と、霊児は溜息を吐いて頭を掻く。小難しい言葉を並べる早熟な子供のような印象を受けた。

心を、他者の心を見透かし読めることすら、霊児にとってその〈程度〉。

 霊児にとって、心を読まれようとどうでもいい。

 〈見せて〉、〈恥じる心〉が無いからだ。

磯部綾子の質問に対して、真摯に思案するのも霊児である。

 

「解らないって・・・・・・・・・オレはこの通り、〈見たまま〉だ。それに他人(・・・・・)が何を考えているのか? なんてぇ〜のは、解らないで当たり前だよ? オレだって君がオレをどう見て、どう考えているかなんて解らない(・・・・・)。憶測と判断は出来ても、理解なんて程遠いよ?」

 

【嘘よ、嘘よ! 嘘だわ! 嘘嘘嘘嘘嘘、嘘嘘嘘嘘、嘘嘘嘘嘘、嘘嘘嘘嘘、嘘嘘嘘嘘よ!】

 

 

(何回ウソって否定すれば気が済むのさ?)

 

 

【嘘吐き、卑怯者ぉ! 私を混乱させるつもり!?】

 

 混乱と悪夢を見せる権化が強張らせて叫んだ。自分を〈混乱〉させることの出来る者に対して脅えている。初めてこの世界で立場が逆転していた。

 

「卑怯者って・・・・・・・・・」

 

 酷い言いようだな・・・・・・・・・オレはそんなに酷いことをしたか?

 

【なら! あなたは〈何〉? 〈何〉だと言うの? あなたは〈何者〉なの!】

 

(あぁ――――まいったなぁ・・・・・・・・・何て言えば納得するんだよ? こっちが聞きたいくらいだ。ゲンナリだぜ。こんなパターンが前にもあったな? 確か、真剣に考えて答えた言葉すら、殺気だって刃物を振り回してきたよな・・・・・・・・・? あの女の子と同じパターンっぽいぞ?)

 

【あなたはどうしてそんな風に〈生きられる〉のよ!? どうして? 何で? 何があなたを〈そうさせたの〉!】

 

 悲痛すらある質問に、霊児は真剣に頭を抱え込んだ。自分の〈今〉を形成する全てを答えよ! と、言う磯部綾子の言葉に本気で悩んでいた。

 

【言えないことなの! 自分の事なのに!】

 

「うーん・・・・・・・・・違うんだよ・・・・・・・・・・?」

 

 本気で本当に言うか、言うまいかと悩む霊児はとうとう諦めたかのように溜息を吐く。

 

「あのさ? 何か、ノロケに聞こえそうで嫌なんだよ? 解るかな? 否、判断してよ? こ〜〜〜うね? 自然とこうなっちゃったというか・・・・・・・・・こんな〈風〉に生きなくちゃいけなくなったというか・・・・・・・・・あぁ〜もう良いや。しゃ〜ない。歯切れ悪く言うのは男らしくないよな?」

 

 深呼吸を一つして、心の底から誰かを思い出すように唇を動かす。霊児の表情は哀愁、羨望を綯い交ぜにする。瞳は翳りの残滓。遥か遠くに昇る朝日を見るように細めている。

 

「オレの〈全部〉は貰ったモノだから。アイツがくれた〈全部〉が、今のオレだと思うよ」

 

【・・・・・・・・・・・・】

 

 闇は囁かない。霊児の声、霊児の本心が届いたのか。

静謐が密度を増して圧し掛かる。

 

「オレも〈全部〉をソイツにあげちまった・・・・・・・・・オレの心は〈無念無想(何もかも、無い)〉」

 

 静まり返る〈闇〉――――磯部綾子。闇がガタガタと震え始める。恐怖ではない。寧ろ、未知過ぎるモノを見たように。

聖人の墓を暴いた畏怖と罪に苛まれていた。

 

【・・・・・・・・・・・・】

 

「判ったかな?」

 

 無言を肯定と受け取った霊児だが、磯部綾子は違った。掻き毟るほどの絶叫を木霊させる。

 

【あなたは絶対に〈ここ〉で殺す! あなたが〈居て〉良いわけが〈無い〉!】

 

 宣誓を叩きつけ、闇は声すら響かない静寂を作り出す。

 霊児は何が不味かったのかと、本気で思案した。本気で思案した結論は、

 

(オレって・・・・・・・・・無自覚過ぎるのか?)と、非が己にあるのではないかと、今までの人生を振り返り始めてしまった。だが、とりあえずは足を進めることだけを専念する。

 〈今〉は優先順位の通りにしようと己を納得させ、歩を進めていく。

 

 

 

 荒野の中心――――羊水に浸っている磯部綾子は丸まったままガタガタと震えていた。その様子をニヤニヤと笑う人物――――否、黒白の魔王が笑う。

 

「どうしたんだい? そんなに丸まって? 寒いのかい?」

 

 羊水の中で眼を見開き、睨み付ける磯部綾子。その怒りの形相に肩を竦める。

 

「怖いな? せっかくの可愛い顔が台無しじゃないか?」

 

【黙レダマレダマレ・・・・・・・・・】

 

 異界を支配者は下僕へ命じる。だが、この下僕は口を閉ざす訳が無い。

 

「ビックリするのも無理ないさ? さっき話していた〈彼〉は、君なんてお呼びじゃないほどの〈過去〉を背負っている。ざっと〈霊視()〉たけど、彼? 一〇歳の頃に四歳離れた双子の弟妹。そして両親と、その両親が開いていた道場の門下生二〇〇人・・・・・・・・・いや、二一〇人かな? 鏖しになっているね? まぁ〜僕にとって変わろう(・・・・・・・)とした部下のせいなんだけど・・・・・・・・・・・・」

 

 頭を掻きつつこちらへ視線を向けている磯部綾子を見ながら、さらに酷薄な笑みを作り上げていく魔王。その眼は初めて見せる憧憬。羨ましいと目を細めていた。

 

「そこから彼? スゴイよ? その部下に辿り着くまで、ざっと一〇九人ほど斬殺している。あぁ〜一〇九人は人外なんだけど、自分の両親も含めてね? 人間も含める(・・・・・)と四桁を超えている・・・・・・・・・凄いね。本当に凄い。僕ですら八四一人と、三二九の人外だけだ。彼は僕より五〇人ばかり多く殺している・・・・・・・・・羨ましいよ。ハッチャけて楽しかったろうね」

 

 磯部綾子は無感情の眼で魔王を見下ろす――――――――。魔王は破顔一笑を向けて赤い唇を開く。眼は――――狂気に踊る。

 

「僕が片付けようか? と、言うか? 僕も彼と遊びたい。ほら? 利害は一致している」

 

【ダマレ】

 

 口の中でブツブツと言い続ける哀れな少女。

つまらないと言うように溜息をする魔王は背を向ける。足元の荒野は黒い泥となり、その中へ身体を吸い込ませた。

 

 

 

 異界の中――――疾り周り、走り疲れて・・・・・・・・・頭を抱えてガタガタ震えている人物に、巳堂霊児は眉を寄せた。

 この異界でようやく見つけた人間ではあるが、あまりにも情けない格好だった。

 頭を抱えているのは判る――――だが、頭隠して尻隠さず。ある意味、ケツを突き出す姿は情けない。

 人から見たら、きっと思いっきりケツを蹴りたくなるだろう。

 

「何でだよぉ〜? 音より疾く来てくれるんじゃないのかよぉ〜?」

 

その情け無さの核弾頭が、ガタガタ震えた声音で呟く。セリフはもう完全に涙声。

 

「おっ、おっ、おっ、ぉ・・・・・・・・・お母さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」

 

 うぁ! マコっちゃんだ!

 レザーパンツとウォレットチェーンだけ。背筋に刻まれた刺青に相応しい凹凸のある肉体・・・・・・・・・そんな青年が、情けない声で母を呼ぶ。

 

「まっ・・・・・・・・・マコっちゃん?」

 

 呼んでいいのか・・・・・・・・・あえてここは落ち着いた時を見計らうべきか? そう悩む時間よりも、とりあえず知り合いがいることを教えて恐慌から救おうとする霊児。

 

「ヒィッ!」

 

 しかし、ビックリして振り向く誠。鼻水、涙のぐしゃぐしゃな顔。一七歳の男の子の顔じゃなかった。

 

「泣いてたの?」

 

「泣いてないですよ? 誰が泣いてるって言うんですか?」

 

 唇尖らせてプンプンの誠に、霊児は溜息を吐きながらポケットからティッシュを取り出す。

 

「これ」

 

「あっ? すいません」

 

 素直に受け取って鼻をかむ誠から目を離し、霊児はこの闇の世界を一瞥する。

 

「まぁ〜泣きそうになる気持ちは判るよ。ここはしゃ〜ない」

 

「だから泣いてませんってぇ!」

 

 いつも無視するはずの立場を逆転させ、霊児は取り合いもせずに闇を見る。〈第三の眼〉――――〈神眼〉を持つ霊児の視界には、無数に広がる青と緑がこちらに吸い込まれるように渦を描いていた。並行に流れるはずの〈霊脈〉に異常な乱れがあった。

 

「・・・・・・・・・乱れと言うより・・・・・・・・・汲み取っているのか?」

 

 霊脈の流れを逆流させ、鬼門の〈内側〉を呼び寄せていると織り、霊児の顔は引き締まる。

 

「ここはもう〈異界〉じゃないな・・・・・・・・・・・・無理矢理言葉を当て嵌めると――――」

 

「当て嵌めると・・・・・・・・・何ですか?」

 

「魔術で創り上げた【三途の川】ってとこか」

 

「【三途の川】って!? おれ死んでるんですか?」

 

(無視しておこう。じゃなきゃ、説明とマコっちゃんを宥めるのに時間を喰う)

 

 だが経験上――――魔術師の最高峰に位置付けされる〈吸血鬼〉を狩り続けた霊児には、初めての経験ではない。これをいれて五度目。その五度目の経験上、この異界製作者改め、【現実浸食者】を倒すことに念頭を入れた。

 

「とりあえず、ここから出るには【これ】を広げている――――逆流させている魔術師を倒さないと」

 

 霊児のセリフに、泣きべそかいていた誠の顔がピタリと止まる。

 

「マコっちゃんはオレに付いて来てくれ。こっから襲ってくる【奴】は、きっとマコっちゃんにとって〈絶対〉に勝てない。いや、勝てっこない。〈心の底〉からその人物が〈強い〉と認めてしまっているから」

 

 そして、その人物が現れることは〈本物〉を意味するだろう。もういない。もう存在するはずの無い人物が、〈口寄せ〉によってこの世界に舞い降りる。

 

「だから――――」

 

 

「キミがボク(・・・・)を倒すと? 誠を傷付けないために?」

 

 

 静かに響く背後からの声音に、霊児は早速来たかと溜息を吐いた。しかし、誠の視線はその人物を見たまま硬直している。

 誠の表情は恐れからか、肩を震わせていた。唇は微細に震わせ、その人物を見詰めたまま弱々しい呟きと、幼子のような目で見詰めていた。

 

「お父さん・・・・・・・・・?」

 

 霊児の歯が知らずに歯軋りを立てた。

 心の領域を土足で入り込んでいるのはこちら側。しかし、あちら側は心の傷口に手を突っ込んで引きずり出し、大切なモノを暴いている。

 汚している――――。

 絶えずあった微笑みの仮面が滑り落ち、誠が見詰める人物へと振り返る霊児。殺気、殺意という人間が持つ負の感情が〈修羅の覚者〉から放たれる。

 

「初めまして」

 

 修羅の眼光、神の領域すら見透かす〈霊視〉を一身に受けても、柔和な微笑を向けるだけである。誠が父と呼んだその人物、真神仁に巳堂霊児は怪訝となる。

 不思議と光沢があるのか、白銀の髪が闇の中で一際輝いていた。丸眼鏡から覗いているその黒い瞳は深海の神秘。

 首下から腰までベルトが施された黒のハイネックロングコート。そして黒のレザーパンツ。

 

 

(これが――――真の《神殺し(スレイヤー)》)

 

 

 そして、誠の顔と良く似ているが――――深みが違う。

天地と言っても良いほど・・・・・・・・・その顔に広がる微笑は霊児でも眼を離せない。

 

「誠がいつも世話になっているね? そして――――ありがとう」

 

 霊児に向けるその瞳――――痛々しい者を見るように、傷だらけの霊児に万感の思いを込めた声。

何故オレを見て礼を言う? そんな疑問符が脳裡に過ぎるが、誠は知らずに霊児よりも前へと動いていた。

 

「父ちゃんなの?」

 

 頷き――――丸眼鏡を懐にしまう。

 

「大きくなったね? もう京香さんの身長を超えたかい?」

 

「・・・・・・・・・うっ・・・・・・・・・うん。おれ、もう一七八センチある。でも、父ちゃんの身長に追いついていないよ」

 

「もうすぐさ。一八八センチなんてすぐに伸びるよ」

 

「そう・・・・・・・・・・なの?」

 

「そうさ?」

 

 何時の間にかどんどん近付いていく誠。その誠を止めようと手を伸ばす霊児。

 

「とっ・・・・・・・・・・・・とっ!」

 

 霊児の手を置き去りにし、父へと向かって走り出した。父さんと呼びたいのだろう。だが、感極まって舌は追いつかない。

 

「マコっちゃん! ソイツは!」

 

(本物だけど、異界に縛られている! だから、君の天敵だ!)

 

だが誠は止まらない。両腕を広げる父へ向かって――――。

 

 

「とっとっ――――ドッセイィ!」

 

 

 なぜか右拳で殴り付けていた・・・・・・・・・・・・。

 

(えっ・・・・・・・・・何で?)

 

 霊児の疑問符の上で、パンダが笹を食っていた。

 背中からぶっ倒れる父、真神仁。殴った姿勢のまま固まる誠。

 

 

「――――誰か! 突っ込みを求む! オレじゃどうしようもないよ!」

 

 

 じゃ、突っ込む。〈キミの仕事〉だ。

 

 

「違う・・・・・・・・・父ちゃんじゃない・・・・・・・・・」

 

 こんな雰囲気はどうでも良いのか、シリアスで重い口調の誠。

 

「父ちゃんがおれのパンチ程度でぶっ倒れる訳がない・・・・・・・・・てか、おれのパンチを捌いた上に地獄車で投げ飛ばすもん」

 

「えっ? 何? その判断基準は? 何? その過激なスキンシップは?」

 

「それに父ちゃんはこんな不細工じゃない。眼が違う。もっとこう――――」

 

 口篭もりつつもどう表現すればと頭を掻き、白目を向いて倒れる実の父を指差した。

 

「コイツが父ちゃんのワケがねぇ!」

 

 吐き捨てた誠は倒れた父すら見ずに、闇を一瞥して離れていく。

 

「しかも何だ? ここは・・・・・・・・・人のモンを引きずり出しやがって・・・・・・・・・・人の思い出を汚ねぇ手で突っ込みやがって・・・・・・・・・」

 

 ブツブツと呟きながら霊児の横を通り過ぎる誠。

 唸りながら上体を起こし始める真神仁に視線を向けた霊児は、オズオズと近付いてポケットティッシュを差し出した。

 現世との境界線があまりにも曖昧なったこの世界。この場にいるのは正真正銘の真神仁。偉大な《神殺し》として礼を尽くす霊児。

 

「どっ――――どうぞ」

 

「あっ? ありがとう。気が利くね? しかし・・・・・・・・・〈呪縛〉から逃れるためとはいえ、さすがに今のは効いたな・・・・・・・・・」

 

 言いながら鼻にティッシュを捻じ込む姿は、情け無い。この情け無さは言い逃れ出来ないほど父と子を表していた。

 

「よかった――――眼鏡をしまっておいてよかった」

 

 

(殴られることを前提にしてた?)

 

 

 疑問符がまた増える霊児。だが、誠はもう止まりそうに無かった。

 

「しかもてめぇ(・・・・)? 何様だぁ? あぁ?」

 

 闇に向かって吼える憤怒。怒声の震動に闇の容が震える。

 魔火(まっか)に煮え滾る怒りの紅眼を、下へ向ける。闇の床を貫き、下へ下へと貫き続け、赤茶けた荒野で脅えている少女と目を合わせる。

 

「デカイ図体でよ――――引きこもりやがって・・・・・・・・・」

 

 ――――ヒィっ?

 

 闇――――磯部綾子は悲鳴をあげた。その紅眼の奥底に眠るモノに睨まれる。縛鎖(ばくさ)を引き千切り、鉄格子を引き千切って――――近付く悪魔に悲鳴をあげた。

 

 金切り声の悲鳴に、霊児は驚愕して闇を見窺う。

 立っている床に禍々しい門を象るような(シール)が刻まれていた。その中心部で誠の視線は狂い無く、真下の存在。真下で脅える少女を睨んでいた。

 

「クソむかつく小細工しやがってよ――――」

 

 右拳を握る――――力瘤に血管が浮き彫り、その血管にそって甲殻とスタッズが覆っていく。

 ピタリと構えを取る誠。

 

「ぶっ壊してやる・・・・・・・・・」

 

下段正拳突きの構えは――――武術を極めた霊児の目から見ても、一切の無駄が無い。

 

「霊児くん? 離れた方が良い。誠がやらかす(・・・・・)つもりだ」

 

「はぁ?」

 

 霊児の疑問符と同時だった。

 

「ドッッセィィィィィィイ!」

 

 裂帛の呼気と共に破壊者の片鱗たる右拳が振り落とされた。盛大な轟音を響かせる右拳と磯部の〈異界〉。だが微動すらしない〈異界〉の床と空気。

 静まり返る雰囲気の中、頭を振って霊児は誠の背中を見窺う。

 

「マコっちゃん? ここは異界だよ? そんな力任せ――――」

 

無駄だよと、霊児の言葉を遮るように、真神仁はニッコリと微笑みを浮かべる。

 

「教えたとおりの良い正拳突きだ」

 

 瞬間――――亀裂が床を駆け廻る! 岩盤が音を立てて突き出す!

 

「えっ!? マジか!?」

 

 霊児は驚愕と説明を求めるように誠へ視線を向ける。だが、誠は砕かれていく床の隙間に射抜くように凝視。真下でおぞましい黒い妊婦を見下ろしたまま――――ビル一〇階分はある高度から飛び降りる!

 頭からの急行落下。白い雲を引いて瓦礫すら突き抜けて。

 

 自由落下する瓦礫の上で霊児は軽やかに着地し、真下を見るがもう誠の姿は豆粒のように小さい。

 

「先走り過ぎだ!」

 

 もう前すら見えないのか、誠は落下速度をさらに強めて暗黒を広げる聖母を目掛けていく!

 

「周りが見えなくなるのは京香さんに似ているな」

 

 振り向くと、自由落下の速度のまま両腕を組んで佇む仁。落下速度の最中、背筋を伸ばして霊児へ視線を向けている。

 

 

(すげぇ――――――――正中線がまったく乱れていない・・・・・・・・・)

 

 

 異界の瓦礫が回転して落ちて行く中で、真神仁だけが垂直。動じた素振りも見せずに微笑みながら――――。

 

「実はボクは高所恐怖症でね・・・・・・・・・高い所がダメなんだ。アハハハ・・・・・・・・・怖すぎて身体が固まったまま動かないよ・・・・・・・・・」

 

 カミングアウトにがっくりと肩を落としてしまう霊児。一瞬でも尊敬してしまった自分が、バカ過ぎて腹を立てた。

 

 そのやり取りの最中――――先行していた誠の視界から数千の使い魔が瓦礫を足場にし、真下から這い出るように迫ってくる。

 

 石板を飛び石として向かってくる刃物の化け物。下降する誠を止めようと上昇する。瞬間、誠は両足を畳んで回転。両足を鋭い鷲爪と化し、右足で〈使い魔〉の首の太さをゼロにする。左足の鷲爪で右肩を食い込ませ、そのまま一気に頚骨を引っこ抜く!

 青い血飛沫が吹き荒れるより疾く、肉の足場でさらに下降速度を加えてダイブする。今度は数百の〈使い魔〉が禍々しい狂ったように雄叫びをあげて迫る。

 

交差する使い魔の群れと誠。

 

一番接近してきた両腕が鉈の〈使い魔〉へ左手を突き出し、頭蓋を握り潰す! 頭蓋骨が果実のように潰れ、眼球が飛び出すナマモノを掴んだまま、頭上から迫る下半身だけの〈使い魔〉へ思いっきり振り回した! 両腕の鉈により、真横に真っ二つになる〈使い魔〉は腸をぶちまけて断末魔を上げる。

背中を狙って飛び掛る〈使い魔〉には瓦礫を飛び石として回避し、鷲爪の鋭さに骨肉を握り潰され、新たな飛び石となって下降速度をアップさせる誠!

 しかし、前進に邪魔な瓦礫を腕で弾き飛ばしたその影で――――それを待ち構えていたかのように巨大な鬼の拳が誠の顔面に叩き込まれた! 豪快なフルスイングにより、下降速度が上昇速度に変換され、腰を支点に高速回転を繰り返す誠。バランスを崩した隙を逃さず、残りの〈使い魔〉が一斉に踊り出る!

 ハゲタカが死肉を貪るように固まり、楕円の球体が瓦礫と共に落下していく。

 岩盤を足場にしていた鬼も、己の会心の一撃に酔っているのか。牙を剥き出しにした笑みを零す。

 その楕円の球体がミシミシ――――音を立てながら時計回りに回転し始める。

 最初は徐々に。そして、ゆっくりと回転は速度を増し、竜巻を創り上げてしまう!

 

「オオオオオオオオオオオオオオオオオォ!」

 

 勇壮な雄叫びをあげる誠。

群がる〈使い魔〉を遠心力で引き千切り、残骸と血肉を生産する。

左腕から突き出した極太のマフラーから火柱を吹き荒し、火炎のラインを描く中、左手握っている〈使い魔〉を鬼へ向けて投擲する!

錐揉みの浮力で瓦礫が追いついて来た一〇メートルはある岩盤。それを両足の鷲爪に喰い込ませる。逆さのまま下界にいる鬼を睨み、両膝の力を溜めて間合いを詰めるべく足場を爆砕し、急降下を再び決行する。

絶叫を上げて迫る〈使い魔〉を握り拳で払い、爆砕させて頭上に視線を向ける鬼。左右に存在していた無数の瓦礫が爆砕音を響かせ、地煙が視界を隠す。ジグザクの軌跡と破壊を刻み込む誠が目の前にまで迫る。

 

「チエリャァァァ!」

 

「ガァアアアアア!」

 

迎撃のために放たれた鬼の右フルスイング! 誠の振り落とした左拳が激しい火花を放って激突! 下降上昇のスピードが相殺され、身体を回転。鬼が足場としている岩盤の上へと降り立つ誠。しかし、着地の暇も与えず頭上から迫る鬼の執拗な拳の連打!

誠は超高速のバク転で回避するが、大振りの一発一発が岩盤に皹を作り、リングとなっていた岩盤は破壊寸前。

鬼の間合いから離脱して着地する誠。だが、鬼はその体躯からは想像出来ない速度で肉迫! 全身を弓なりにして乾坤一擲の右拳が誠に激突する!

地煙と瓦礫が破壊の衝撃波で舞い上がる! 誠という物体が塵と化すには充分すぎる一撃。だが、会心の一撃を放った鬼自身の顔には驚愕が張り付いていた。

 

 

ギリギリ・・・・・・・・・。

 

 

筋肉が音を立てている。地煙が晴れ・・・・・・・・・誠の姿が輪郭を表す。

鬼の突き出した右腕――――右前腕・・・・・・・・・巨木の如く太い鬼の右腕が外側を向いて折れ曲がっていた。

あの刹那、円を鋭く描く左手刀で鬼の拳を弾き、返した左手で手首を握る。その全てが壮絶な破壊力を有し、鬼の右腕は折れ拉げていた。

 

「廻し受け・・・・・・・・・?」

 

呆然となって呟く霊児の声音など鬼には届かない。ただ目の前に立つ者に畏怖していた。 

 静かに、ゆっくりと誠は顔を上げて鬼を見る。その双眸は真紅ではない・・・・・・・・・深い――――青銀。

鬼の右腕から滑るように間合いを詰め――――両腕で真円を描き懐に入る!

 

 

「マコっちゃんって体術出来たのかよ!」

 

真下で一部始終を見ていた霊児の疑問に、仁は頷く。真下は見ないで淡々と。

 

「ボクが生きていた頃から基本的な体術は教えていたからね」

 

「基本・・・・・・・・・って? あんた? 今のどう見ても《付け焼刃》じゃねぇ! 何千回反復練習をさせた!」

 

「数えてないけど数万回かな・・・・・・・・・それより、あんた・・・・・・・・・って? ボクは年上だよ? 目上だよ?」

 

 確かに。だが、霊児としてはこのどうしようもなく情けない人を認める事が出来ない。

 

「じゃぁ〜尊敬出来るセリフくらい言ってみてよ?」

 

「そんな!? 恥ずかしい! いきなりは無理だよ! ボクは普通のサラリーマンだよ? ただの課長だよ?」

 

 世界は企業戦士によって守られていたらしい。

 

「なんつうー軽い世界だ・・・・・・・・・」

 

 もう何回目かの溜息を吐いて下を見下ろすと、誠は鬼のどてっ腹に向かってど突き回している真っ最中だった。

 さっきの廻し受けをした人物の片鱗すら見えない。ただメチャクチャに殴りまくる。

だが、破壊力は抜群。肉という肉が骨と共に木っ端に塵と化す。

腹の肉を失い、案山子のように立ち尽くす鬼を足場にして、さらに挽き肉にするエゲつない滑降をする誠。

 霊児の肉眼からも赤茶けた荒野が見え始めてきた。

 

「そろそろ地面に降りるけど?」

 

 一応は仁にも言っておく。言われた仁は満面の笑み。

 

「本当!? よかっ――――」

 

 最後までセリフが終わる頃も無く地面へ向かって爆音を響かせる。霊児は落下する速度を殺し切って、羽毛のように荒野へと降り立つ。

 誠を探すため、顔を廻らせる。ちょうど巨大な妊婦の前にいるし、無事のようだ。そして今度は仁を探す。が――――すぐに見つかった。霊児の隣――――霊児のすぐ横で頭だけを荒野に突き出している。

 

「怖かった・・・・・・・・・本当、高いところはダメなんだ」

 

仁は安堵の溜息。霊児は高い場所にいるより自然落下の方が怖くないのかと突っ込みたいが、

 

(それよりこの人大丈夫なのか? 地面にめり込んでいるのに?)

 

「あの〜?」と、仁はオズオズと霊児を見上げていた。とても恥ずかしそうな顔だ。とても三〇代の大人がする顔ではない。

 

「何?」

 

 気持ち悪いという言葉を噛み砕きながら言う霊児。

 

「引っ張ってくれると、嬉しいかな〜?」

 

「・・・・・・・・・」

 

 もう何もコメントが見つからない霊児は仁の発掘作業を開始した。

 

 

 背後で己の父が情け無さを暴露し続けている事も知らず、誠は黒き妊婦へと歩を進めていく。

 

「【何で・・・・・・・・・】」

 

 妊婦の羊水に浸る綾子の言葉が、誠の頭蓋に響く。

 

「【何で私を虐めるの!? 私は何も悪い事をしていないのに! 誰も迷惑を掛けていないじゃない! ただ静かにしているだけでしょ!? ナノニナンデ!!】」

 

 綾子の悲痛。涙混じりの念話に誠は唾を吐き捨てた。

 

「【ナンデ! アナタモワタシヲイジメルノヨ!】」

 

「うっせぇよ! 引き篭もるなら自分の部屋の隅っこにしろ! それか自殺しろ!」

 

 獰悪なセリフに嗚咽が止まる。

 人に向かって言っちゃいけないセリフを、モロに浴びた綾子は仰天して誠を見た。

両肩からスパイクが突き出し始める。全身の骨格と筋肉が豹変し、黒金の甲殻が全身を覆う。

 

「迷惑掛けてない? じゃ〜? てめぇが広げたこのション便臭え世界は何だ? あぁ!」

 

 怒髪が角を形成し、頬にまで甲殻が覆い始める。

 

「【私は静かに眠りたいだけよ! 自殺だって四回もしたわ! なのに・・・・・・・・・私は【私】を死なせてくれないのよ! だから――――!】」

 

「【じゃあ、【俺】が殺してやるよ】」

 

 マスクの両端が開き、地獄のような声で遮る。

もうドッチが悪役か判らない状況下、ようやく上半身まで引っ張り終えた霊児は仁を見る。

 このオッサンの遺伝子が見当たらない。

 

「本当。京香さんに激似だよ」

 

「あぁ〜なるほど」

 

 そうやって逃げるんだな? と、見下し切った眼で発掘を終えた霊児はやる気も無く、ラストバトルに参加もせず観戦することにした。

 

「あの? 行かないの?」

 

 埃を払いながら立ち上がる仁に白々しい眼で見上げた。

 

「・・・・・・・・・手は貸したくないね」

 

 言いながら親指で誠と綾子の戦闘を指す。いや、あれは戦闘ではない。一方的の一文字だった。

 

 身動きの取れない。取る事を拒否した妊婦に向かって、猛々しい疾駆で肉迫する誠。

 聖母の腹――――妊婦の腹目掛けて飛翔し、誠は全力の拳が叩き込まれる。

拳は羊水の粘膜と、強硬な結界で塞がれるが、異界の床をブチ破った拳は伊達ではなく、妖婦の腹を凹ませていた。

 

「【私は無抵抗なのに! どうして! どうして殴りかかるのよ!?】」

 

黒き聖母の中で、驚愕と悲鳴をあげる綾子。その綾子の絶叫すら無視して、誠の拳はさらに叩き込まれる。

 

「【やめてぇ!! 止めてよ!! 私は、私は女の子よ!! 女を殴るっていうの!?】」

 

「【ピイピイうっせぇ! 死にてぇんだろが! 今更どうでも良いだろうが!!】」

 

 禍々しい巨大な妊婦の腹に、鋭い鷲爪が食い込む。立ち位置が安定され、さらに腰の入った拳が叩き込まれ続ける。

 

「【やめてぇ! 助けて! ヤメテ! 助けてぇ! お母さん!】」

 

 死にたいとほざいた怠惰が――――懇願していた。

死にたくないと。全てを投げ出し、〈見ざる〉、〈聞かざる〉、〈言わざる〉の象徴だった有刺鉄線が弾け飛び、その黒き聖母の眼からは暮雨だの如く涙を流し、耳を塞ぎたくなる絶叫を放ち、己の耳から響く破壊音に恐怖する。

だが、懇願する怠惰に対し、憤怒の魔王は牙を剥き出し吼える。

 

「【怠け者がぁ! まだ出て来ないか!】」

 

 怒声で懇願すら黙らせる。

 

「【引きずり出してやる・・・・・・・・・】」

 

 底冷えする声音で四枚の翼が広がる。

 崩れゆく世界で、漆黒の翼を羽ばたかせて飛翔し――――一全身を弾丸として急降下する!

 両足の鷲爪がギラギラと光りを放ち、妖婦の腹へとめり込む! そのまま一気に四枚の翼が風車の如く回転する!

 高速の巨大なドリルと化し、羊水をブチ破り、遠心力の全てが外へと弾き出していく!

 

 そして――――とうとう綾子と同じ目線――――綾子が守られていた羊水の中に、悪魔が進入した。

 綾子の目と鼻の先に、赤い三つ紅眼は不思議な光沢を放っていた。

時折、澄んだ青と血のような赤が交差するように光る。

だが、それも一瞬だった。悪魔は翼を広げる。

内側から腹部を爆砕させ、背中の翼は禍々しいほど力強く羽ばたかせ、肉片すら吹き飛ばす。

外気に出された綾子は、己の身体が上空にあると気付く。守られていたものが、全て無くなった事に悲鳴をあげ、黒き聖母の絶叫と重なる悲鳴をあげた。霊児は上空で落ちて来る綾子に気付き、走るスピードを上げる!

 

「ヒィッ――――!」

 

身体を強張らせ、眼を硬く瞑る。死にたいといっていた自分が、今は死にたいとは微塵も思っていない。今はただ助かりたいと願っていた。

しかし、誠の方が疾く頭から落ちようとする綾子の身体を抱きとめ、四枚の翼を羽ばたかせて地面へと着地した。

 

「はぁ――――よかった・・・・・・・・・さすがに女の子のスプラッターシーンは嫌だからな」

 

 安堵の吐息を吐く霊児に気付き、眼を恐る恐る開いた綾子は霊児を見て脅えた子羊のように固まった。

 

「君に危害は加えないって? さっきも言ったろ?」

 

 安心できる優しい声音――――不思議に落ち着く声に、綾子が安堵で身体から力が抜け切る――――だが、抱き止めた悪魔はそんな雰囲気など、どうでもいい。

 

「【トドメだ】」

 

 綾子の顔が跳ね上がる。

 そこには殺すと宣言した悪魔。

 

「オイ!」

 

 霊児は手首のスナップを利かせて、思いっきり誠の胸を引っ叩くが――――。

 

 

「嫌ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァア!」

 

 

 磯部綾子は悲鳴を最後に、カワイイ顔を台無の形相で気絶した。

 

 

 

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